読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

放言弁護

随筆

 いまさらながらに気づいたことがある。これはあくまで僕個人の場合なのだけれど、ワールドワイドウェブの辺境に何を書きつけようが、どこで何を話そうが、言ったら言いっ放しでよいということである。それ以上、何を求めるでもないし、言いたいことをザザッと発露してしまいさえすれば、わりあいに満ち足りてしまう。その昔、分をわきまえることなくmixiに興じていた際、ごたぶんに漏れず、これといったオチのない日記をしたためていたものだが、それを見た友人に「お前の文章はお前のなかだけで完結している」などと言われたことがある。当を得た評価だったと思う。それでじゅうぶんなのである。

 

 もちろん、共感を得られるに越したことはない。喜ばしいことである。思いも寄らぬ人からの反応というのは、素直にうれしく受け止めている。が、そのような感覚は単なる副産物の域を出るものではなく、必須条件でもないのだ。

 

 他人を説き伏そう、納得させようという試みには、相当なパワーが必要である。同様に、他人との一致点を導き出そうという試みも、なかなかに困難を極める。僕はそこのところに関するやる気というか、根性めいたものを著しく欠いていることを自覚しているつもりなので、過分なマネを実行することはできない。コール&レスポンスは、そうそう容易に達成されるものと思えない。だからこそ、ごくまれにちょうだいする反応というのが、やたらに晴れがましく感じられるのかしら。だとすれば、ある意味、得な性分といえるのかもしれない。

 

 他方で、世には「分かる人だけ分かればよい」といった言い回しもある。こちらについては度胸がない。わざわざ選民意識をはたらかす必要があるだけの講釈を垂れることができているかというと、まるで自信が持てないのである。 

 

 話の着地点をどこに見出すか、怪しくなってしまった。まあしかし、いずれにしたって、今後も上記の考えのもとに駄文は書き連ねられていくのだろう。共感への期待感、なわばり意識こそが、内輪なるものを形成するという向きはあろうし、実際にそのような部分もあるのだろうけれど、僕にはどうもなじまない。何事にも向き不向きがあるわけだから、これは致し方のないことなのである。メタンガスの放出くらい、好き勝手させてもらっても、バチは当たるまい。

 

 以上をもって、本日の強引な胴体着陸としたい。