読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

S字フックの女

随筆

 その女がチョコレート色の列車に乗り込んだとき、すでに座席は埋まっていた。時刻は金曜日の19時を回ったあたり。無理もない。帰宅ラッシュの車内には、酒宴の誘いを体よく断ったのであろうか、背広姿の男たちが目立つ。晩秋の折、外気は冷たく乾燥しきっているというのに、ここばかりはずいぶん湿度が高いように感ぜられる。

 

 始発駅に用のない彼女は、はなからそんなことは承知のうえであった。同じ時間、同じ駅、同じ乗車位置から、何度も何度も同じ列車に乗ってきたのだから。つまり、経験はじゅうぶんに積んできたというわけだ。還暦を少しすぎて、加齢による体の不調との付き合いにも慣れてきた。だから、混雑する列車のなかにあっても、いかにすれば自分の体に負担をかけずに済むか、そのことについても色々の方法を試してきたのである。

 

 車内に落ち着きどころを見つける。両の手に重い手提げ袋を握った彼女は、その一方を静かに床に置いた。そうして、もう一方をガサゴソとやり、やおら2つのS字フックを取り出す。続いて、お世辞にもきれいにしているとは言いがたい容姿とは裏腹の優美な動作で、それらを手すりに引っかけた。ここに手提げ袋を吊り下げようという算段だ。

 

 列車が、するすると駅を出る。等間隔の光の連なりが、街の間を縫っていく。先ほどよりも、いくらか涼しい表情を浮かべるS字フックの女。車窓に横たわる夕景は、彼女の目にどのように映っていたのだろう。