読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

無策で迎える日曜日

随筆

 先日、出勤前に期日前投票に行ってきた。当日の投票所が小学校ということもあり、なんとなく敷地への立ち入りがはばかられたのだ。票を投ずるに先んじて、投票日がNGであることの理由を問われる。僕はある種の希望的観測から「外出」を選択した。で、今日が投票日。いまのところ、表に出るには至っていない。予定は未定ということだ。

 

 希望的観測といったが、これ、他力というよりは自力に向けた希望である。生活費に占める交際費の割合の低さを鑑みるに、他力への期待は現実的ではないからだ。ともあれ、せっかくの休日である。ひょっとすると僕も外に出て、何かをなすのではなかろうか。それがただ、うどんを食べに行くだとか、古本屋に読まない本を求めるだとか、曇天下の河原でボーッとするだとかいった、些細なことでも構わない。内容のいかんを問わず、外界に対し、何らかのはたらきかけをするのではあるまいか。そういった観測をしていたわけである。

 

 が、実際のところ希望的観測というのは、外れるのが常らしい。この半年ほどかしら、僕は幾度となく無策の休日を過ごしてきた。策を講じなければ、そんな気がないわけではない。強引に外出の理由をこしらえ、強引に外出しようと思えば、できないこともない。ただ、やはりその外出は義務感から出たものにすぎず、自然発生的なそれとは比較しがたいほどに悲しい内容を伴うのである。これは実体験に基づく感想だ。

 

 観賞欲とでも呼ぶべきものが、減退したことも大きいように思う。通知簿でいうところの「興味・関心」の項は、もはや評価に値しない水準にあるのではないか。ここの部分が保たれていれば、表に出ずとも何なりとできることがあったはずだ。もとより映画は見ないし、読書もしなかったけれど、音楽に関してはよく聴いていた。それがどうだろう。どういう経過をたどったのかは自分でも定かではないのだが、もうほとんど聴かなくなってしまった。当然のこと、そこに至る一切の手続きも省略された。NHK-FMを垂れ流しにするくらいが関の山で、YouTubeの検索ワードさえ思い浮かばないこともしばしばだ。おそらくは「自分は音楽好き」というふうに錯覚していたのでしょうね。おめでたい話である。

 

 僕はどうやら、無策でいることに慣れてしまったようだ。力技で導き出した策に、不埒なものを感じているようではダメなのだろうか。スケジュール帳を黒くしようと躍起になる人から、何か学ばねばならないのだろうか。なかなかに処しがたい現況である。

 

 つい先ほど、不意に呼び鈴がなった。何の勧誘だか知らないが、おちょくられているような気分にさせられた。