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関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

聖域なき丁寧語

随筆

 これまで、いくつかの職を転々としてきたのだけれど、そのいずれにも共通する振る舞い方がある。すなわち、こちらから見て後輩と呼べる人たちが出現したとて、彼ら彼女らに対し、丁寧語を完全撤廃しなかったという事実である。

 

 直截的に言って、丁寧語は至極便利である。僕からすると、いわゆるタメ口というのは、それを用いたが最後、相手と自分との壁を一切合切取り払ってしまうような気がする。自らがタメ口で話してしまえば、それこそ性的なフェティシズムであったり、預金残高であったりといった機密性の高い個人情報を、互いに包み隠さず開示しなければならぬように思われてならない。一方で丁寧語は、未知の人との間に、ほどよい心理的障壁をこさえてくれる。その威力は、長幼の差さえも軽々飛び越える。目前の人の懐に土足でズカズカ押し入ることを、事前に回避させてくれるのである。妙な気遣いなどしなくとも、口先ひとつでこういう効果が得られるのだから、実に簡便で素晴らしいのだ。

 

 聖域なき丁寧語使用実践の効果は、てきめんだった。職場の性格を問わず、てきめんだった。人からは余計な探りを入れられないし、こちらとて無言の状態を必要以上に気まずいものと取る必要がなくなる。気楽ではないか。実に気楽ではないか。仕事の時間を穏便にやり過ごすのに、この方法を採用せぬ手など、まったくないではないか。日本語というのは、なんとよくできた言語なのであろう。

 

 0か100(ないしそれ以上)かの人間関係しか築けない者からすれば、前者を上手にやり過ごすにあたって、手数が多いに越したことはない。いかに波風を立たすことなく、0の付き合いを可能にするか。これは、僕が一応の社会生活を送るにあたって、欠くべからざる重大テーマなのだ。ひとつ残念なのは、こういった御託を並べてみたところで、現職に留まることを許された時間は、着々と残り少なくなってきているということなのであった。