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関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

春の夜の痔談

日記

 何の因果か知ったことではないが、痔になってしまった。新聞のテレビ欄のかたわらで、独自の主張を展開していた痔の模式図さながらの突起物が、出し抜けに生じてしまったのだ。着座時にソフトランディングを要することが、これほどまでに面倒だとは思ってもみなかった。問題に直面して初めて、その重大性に気づかされるのが世の常といったところであろうか。

 

 馬鹿正直にイスに腰かけようものなら、しっかり痛む。いくらか角度をつけて座ることをもって、少しでも気をまぎらわせようなどと画策してみたけれど、あまり効果は感じられず、そこのところに活路を見出すことに関してはあきらめがついた。

 

 今度の件を受けて、立ったり座ったりという、オフィスワーカーに当然のごとく求められる能力を欠くことがいかに恐るべきことか、イヤと言うほど思い知らされた。また同時に、肛門括約筋の八面六臂の活躍ぶりに関しても、学習させられた。あの筋肉は、なにも大便をひり出すとき、こらえるときにのみ、機能しているわけではなかったのである。

 

 幸いなことに、秘薬・ボラギノールのおかげもあって、症状は快方に向かいつつある。多少いい加減に座ってみても、顔をしかめることはなくなった。原因については、肛門科医ではないので特定できない。職を転じ、座っている時間が長くなったせいか、あるいはカレーの食べすぎによるスパイスの過剰摂取が、肛門に負担をかけていたのか。いずれにせよ、話は憶測の域を出ない。とりあえずは初対面の人に尻の穴をさらさずに済むよう、このまま順調に回復することを祈りたく思う。

砂時計とのお付き合い

随筆

 ここ数年の話だと思うけれど、朝に目が覚めて、自分がいったい何者であるかというような情報を読み込むことに、僕は関根であるという事実を理解するまでに、時間を要するようになった気がする。たとえるならば、実家に初めてやってきた、Windows Meを搭載したパソコンの動作を思わせるほどである。僕自身、些細なことをさも大層なことであるかのように語ることが多いというのは、承知している。が、実際にそう感じられてしまう以上、どうしようもないのである。

 

 以前に比べて、酒量が増えたからだろうか。あるいは夢がヘヴィになったのだろうか。あちらではしみったれた自分以外の、もっと晴れ晴れとした役柄を演じているばかりに、そのあおりを食っているということか。何ぶん、眠っている間のことだから、話は憶測の域を出ない。かといって、ほかに思い当たるフシもない。ろくすっぽ事態を飲み込めぬままに、頭のかたわらで砂時計のアイコンが空転するようになってしまったのだ。

 

 幸いなことに、現時点においては実生活に大きな障害が生じたことはないが、いつそうなるやも分からない。漠然とした不安感は日中、その他諸々のなすべきことにより、うやむやにされてはいくものの、決して消し飛ぶような性質のものでもない。どうにも相性がよろしくないと思われるベッドに横たわり、質の優れない睡眠を経れば、また同じような朝がやってくる。僕にとっての日常というのは、そのことの繰り返しにすぎないのである。

 

 明日もきっと、普段と変わらぬ朝を迎えるのであろう。これといった策を講じられないわけだから、甘んじて受け入れるよりほかない。もし可能であるならば、メモリを増設してみたい。

バイバイサンデー

日記

 この週末も相変わらずの週末といった感じで、休日の使い方に光明を見出すには至らなかった。休みはほしい。きっちりほしい。ほしいのだけれど、いざ休みの日を迎えてみると、これといってしたいことが思い浮かばない。行きたいところもない。娯楽にあたるものがない。やりたくないことであれば、たやすく思い浮かぶというのに。困ったことである。

 

 排水口の掃除をした。引っ越し以来、頑として放置してきたために、ここのところ水流が著しく停滞していたのだ。下ろして間もなくダメになった歯ブラシでもって、魔窟を引っかき回す。成果は上々であった。過ぎ去りし長髪時代の思い出が、これでもかと言わんばかりに詰まっており、期せずして涙した。こういうとき、ユニットバス物件に住まうことの優位性に思いが至る。色々の原因のために粘性を伴った毛髪も、即トイレに流すことができるのだ。素晴らしいではないか。

 

 すがすがしい気持ちになったのも束の間、今度は映画鑑賞の趣味を持ちえなかった自らを呪った。長時間にわたる映像コンテンツを目の前にして、集中力が続かない。要するに根性がない。また一方では、大手を振って教養人ヅラをするための適格条件を欠いている。もし仮に、起床時から延々映画を見続けていたとすればどうだろう。5作は消化できたはずだ。つまるところ、大いなるヒマつぶしが成立したわけである。が、僕にしてみれば、これは1年がかりでも到達できない数字である。それだけの時間を無駄にしたというわけだ。のうのうとクイニーアマンなどむさぼっている場合ではなかったのである。

 

 ほどなく次なる1週間が始まる。どうにかやりきらなければならない。

巨乳最高再考

随筆 猥談

 もうだいぶ以前から、度が過ぎる巨乳に関して重大な疑念を抱いている。それはすなわち、手に収まりきらぬほどの乳房というのは、物体としてのみならず、その実態さえも捕捉できぬのではあるまいかというようなことである。

 

  話はごくごく単純だ。要するに、どどんと眼前に現れたるそれは、差し伸べた五指の間より断りもなしにあふれ出すだろうから、つかもうにもつかみきれない。 片手でもって片方の乳房をむんずと握り、もう一方の手を用いてハミ肉なるものをどうにかしようとしたところで、どうにもなるはずはないし、代弁者としてジャイアント馬場に出動を要請することもかなわない。何よりそんなことをしたところで、無粋の極みでしかないのである。この体たらくで、やたらな巨乳のすべてについて了解したなどと言うことができようか。判断材料が圧倒的に不足しているのではないか。少なくとも僕には、曲芸的な発言であるとしか思えないのである。

 

 視覚的な話に限定すれば、いくらか論調も違ってくるのだろうが、そこに終始しているようでは、生育に生育を重ねた乳房に礼儀を尽くすことはできないだろう。あくまで空間に位置を占めるものとして、しっかりとその尊厳の死守を試みるからこそ、一切のもれなく味わい尽くそうとするからこそ、問題は生ずるのである。巨乳好きを公言するにあたり、責任をまっとうせんとするならば、単に対象を手に余るものに留めておくことは、断じて許されるものではないはずだ。いや、きっとそうだろう。そのように堅く信じている。

 

 以上のように感ずる次第であるから、僕は手放しでデカ乳礼賛の方面に疾駆することができない。世に言うところのスレンダー巨乳ともなると、上下のバランスをが瓦解しているように見えて、余計に混乱を来たしてしまう。目の前の現実と手塚マンガとの境界線を、どこに設定すべきか分からなくなるのであろう。だからこそ、現実味あるボディラインに心惹かれるのだと思う。

 

 最後にひとつだけ、断っておかねばなるまい。ここまでの内容は、実体験に即して記されたものではない。ごめんなさい。

無音の日々

随筆

 どうにも最近、音楽の話ができなくなったような気がする。何か適当なアルバムを聴かされ、感想を求められたところで、ろくな言葉が出てこない。もともと、うわっつらをすくい取るような聴取態度しか取ってこなかったし、英詞はおろか日本語詞の意味するところにさえ、ろくに理解を及ぼそうとした経験もなかったわけだから、それも無理からぬ話なのかもしれない。

 

 もはや状況に応じて音楽を選ぶというようなことすらしなくなってしまった。チルタイムなどないのだ。携帯されない携帯音楽プレーヤーは堂々無用の長物と化し、在宅時も無音で過ごすことが多い。曲がりなりにもかつて音楽をつくる側であったはずなのに、この現況はなかなかにすさまじいものがあるように思う。

 

 人と会い、音楽が話題にのぼる。口をつぐみ、おつむのうちに断片化した知識をかき集めるうち、なるほど僕は会話への参加について適格条件を欠いているのだという結論に至る。大手を振って音楽好きを名乗れる人との間には、明確なギャップを感じずにいられない。彼らの何がすごいかというと、好き嫌いを別にできてしまうところである。具体的な評価は保留するにしても、昨今、チャートをにぎわしているような音楽にまで精通するなどしているわけだ。実に勉強熱心であると言わざるをえない。

 

 そもそもの話をするならば、嗜好品たるところの音楽など、別に聴かずとも何のことはないのだけれど、5年前、10年前のことを考えると、やはり気味が悪い。界隈の人が好んで用いる言葉を援用するならば、掘ることもしなくなったし、暑苦しい推薦の弁を垂れることもなくなった。他にこれといった楽しみができたわけでもないのに、何のゆえんがあって現在の状態に至ったのか。考える限り、心当たりはない。