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関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

お怒りの声を受けて

日記 文句

 僕にしては珍しく風邪をちょうだいし、更新が停滞してしまった。この1週間ほど、人の怒りから色々と勉強させてもらうことがあった。

 

 先の金曜日だったかしら、勤務先への道中に乗り換えが必要な僕は、いつものように淡路の駅で電車を待っていた。阪急電鉄ご指定の乗車位置の先頭。ホームに滑り込んできた快速急行に乗り込もうとした際、ことは起きた。僕のすぐ横でぼうっとたたずんでいた老人が、あろうことか割り込み乗車を画策してきたのだ。それだけではない。「何しとんじゃ、こいつ」などという悪態のおまけつきであった。こちらとしては、正規の乗車位置にいないことから、別の電車に乗るものと判断していた人物である。それがどうやら見当外れだったらしく、彼は独自に設定した乗車位置から我先にと座席確保に動いたのだ。僕だって、いちおう鬼ではないから、腰が曲がろうかという老人から優先座席を奪おうとはしないが、それにしたってやり方が悪どいのではあるまいか。よもや運転士の技量への疑いから、正規の位置とは違うところで待っていたのか。「暴走老人」の名を冠するのは、安直にもほどがあるので控えるが、最低限の礼節くらいはわきまえてほしいものである。

 

 他方、仕事においても理不尽な怒りを買ってしまった。詳細については伏せるが、ある人から日本語特有の婉曲表現の揚げ足を取られ、マッチポンプ式に罵声を浴びせられてしまったのだ。誰か適当な相手にケンカを吹っかけるぶんには申し分のない才能については、「放火魔」の名をほしいままにするものと思うが、やはり受け手としては気分が優れない。とりあえずガナることが、彼の日常生活にハリを与えているのだとしたら、たまったものではない。折々に強引な説教を差し挟む、まるで建設的ではない試みを、ある種の教育手段として捉えているフシがないでもないので、余計に始末が悪く思われた。同じ釜の飯を食らわずに済むことが、不幸中の幸いといったところか。

 

 いずれにせよ、何が元となってよそ様の怒りを買うかは、てんで予想がつかない。今後は一層、慎重に慎重を期した言動を心がけねばならない。

放言弁護

随筆

 いまさらながらに気づいたことがある。これはあくまで僕個人の場合なのだけれど、ワールドワイドウェブの辺境に何を書きつけようが、どこで何を話そうが、言ったら言いっ放しでよいということである。それ以上、何を求めるでもないし、言いたいことをザザッと発露してしまいさえすれば、わりあいに満ち足りてしまう。その昔、分をわきまえることなくmixiに興じていた際、ごたぶんに漏れず、これといったオチのない日記をしたためていたものだが、それを見た友人に「お前の文章はお前のなかだけで完結している」などと言われたことがある。当を得た評価だったと思う。それでじゅうぶんなのである。

 

 もちろん、共感を得られるに越したことはない。喜ばしいことである。思いも寄らぬ人からの反応というのは、素直にうれしく受け止めている。が、そのような感覚は単なる副産物の域を出るものではなく、必須条件でもないのだ。

 

 他人を説き伏そう、納得させようという試みには、相当なパワーが必要である。同様に、他人との一致点を導き出そうという試みも、なかなかに困難を極める。僕はそこのところに関するやる気というか、根性めいたものを著しく欠いていることを自覚しているつもりなので、過分なマネを実行することはできない。コール&レスポンスは、そうそう容易に達成されるものと思えない。だからこそ、ごくまれにちょうだいする反応というのが、やたらに晴れがましく感じられるのかしら。だとすれば、ある意味、得な性分といえるのかもしれない。

 

 他方で、世には「分かる人だけ分かればよい」といった言い回しもある。こちらについては度胸がない。わざわざ選民意識をはたらかす必要があるだけの講釈を垂れることができているかというと、まるで自信が持てないのである。 

 

 話の着地点をどこに見出すか、怪しくなってしまった。まあしかし、いずれにしたって、今後も上記の考えのもとに駄文は書き連ねられていくのだろう。共感への期待感、なわばり意識こそが、内輪なるものを形成するという向きはあろうし、実際にそのような部分もあるのだろうけれど、僕にはどうもなじまない。何事にも向き不向きがあるわけだから、これは致し方のないことなのである。メタンガスの放出くらい、好き勝手させてもらっても、バチは当たるまい。

 

 以上をもって、本日の強引な胴体着陸としたい。

頻尿日を振り返る

日記 お店

 役得で2杯の無銭コーヒーをいただき、かわやが近い1日だった。それとは関係なしに、自費でふらっと入った喫茶店・こぐまのマスターの話は、やたらと遠大。柄にもなくカフェオレなど飲みながら耳を傾けていると、最終的に「近く地球は滅びるのだから、いまのうちに女をどんどんだますべし」というようなところに落ち着いた。見る限り、とうに70歳は越えているだろう。店内の平均年齢を著しく下げる僕に対する金言と受け止めた。しかし、だますことができるような女は身近にいない。

 

 あれやこれやに翻弄されながら勤務が終わり、というより力技でもってキリをつけ、電車に乗り込む。道中、体勢を崩した見知らぬ男に、尻を押しつけられる。疲れているのかどうかは、こちらの知ったことではない。可及的速やかに足腰を鍛えるよう要請したい。いやに柔らかい感触を拭いきれぬまま、最寄りの駅に最寄りのスーパーで半額の惣菜を購入し、家路を急ぐ。徒歩10分と少しの道のりが、やけに遠く感じられる。

 

 帰宅してみれば、午後10時を回ったところ。職住近接の必要をとみに感じるが、住み慣れた大阪を離れる決断は、そうそう簡単にできる芸当ではない。ここ最近、ようやく飲食店の人と話す技術が涵養され、なじみと言って差し支えのない店ができてきたことも、後髪を引く。あの店のカレーを食べることが、また別の店で日本酒をあおることが、単なるイベントとなってしまうことが怖いのである。

 

 そんなことを考えつつ、鶏の揚げものをビールのまがいもので流し込み、現在に至る。おそらく今夜も寝つきだけは良好なのだろう。

昼間照明慨嘆

随筆 文句

 日没を待たずに室内照明を灯すことが、どうにも好きになれない。蛍光灯であろうが、LEDであろうが、てんで関係ない。光源のいかんを問わず、そんなふうに思えるのである。日のあるうちは、願わくば自然光だけでどうにかしたい。

 

 思い返せば、小学校時代から同様の念を抱いていたような気がする。全校児童の誰よりも早く校門をくぐることを是としたあの頃、遅れてやってきた連中が、さも当たり前とでも言わんばかりに照明のスイッチに手をかけることに関し、僕はすでに並々ならぬ嫌悪感を抱いていた。登校の先達に対する無礼とは考えないのか。窓外より差し込む日の光だけでじゅうぶん手元の文字が確認できるというのに、それ以上何を求めるというのか。身のほど知らずの贅沢は、慎むべきではあるまいか。穏やかな光が満たす空間をしっちゃかめっちゃかにしておいて、悪趣味にもほどがあるのではないか。ともかくも、まったく合点がいかなかったのである。

 

 照明の点灯をもって、強制的にオフからオンへの厳然たる切り替えをされているような気を起こしてしまっていたのかもしれない。なんとはなしにうやむやにしておきたい部分を、こちらの許しも得ぬままに爛々たる光のもとにさらし、オンの側へと引きずり出すことについては、いまも変わらず前向きな感情を持てない。下世話なマネはよしてほしい。視力低下への懸念など、二の次、三の次なのである。

 

 時折、白昼の阪急電車に乗ると、車掌の気まぐれか車内照明が消灯されていることがある。素晴らしいことだと思う。当然ながらJRなり、モノレールなりの高架下を通過すれば、向かいの座席に腰かけた人の顔面が、手にしたスマートフォンの灯りにぼんやり間抜けに照らし出される。僕が望むのは、そういう世界なのである。

あるオンの日に寄せて

日記 お店

 目覚ましの設定時刻を1時間誤り、当初の予定より24分遅れで起床するも、大事には至らず。労働がもたらす疲労感というのは、さしあたりアラームをセットしさえすれば、具体的な時刻の確認など経ずとも、気が済むようにさせてしまうものらしい。転居以来初めて、カーテンを引けない天窓から漏れる光に謝意を抱く。いや、むしろいちおうの社会人根性めいたものが醸成されてきたことの表れと取るべきか。どちらでも構わないけれど。

 

 みみっちい自宅を出て、キャンペーンに踊らされるアホな消費者を演じ、コンビニにて栄養ドリンクを8本購入。最寄り駅へ向かう。本来用いるべき定期券ではなく、IC乗車券で改札を通過してしまい、取り消し手続きのため、普段より2分遅れの電車に乗り込む。この体たらくであっても、職場に到着する時間は変わらないのだから、大都市圏というのは恐ろしい。恐ろしく寛容である。

 

 幾たびもの架電を繰り返し、すなわち幾たびものロレツ空転を繰り返し、午前を終える。あさぬまのビーフカレーは、今日も変わらず美味である。何度も何度も食すうち、ある種の安心感さえ覚えるほどになってしまった。こういう状態を、ある人は「病気」と換言する。

 

 午後、なかなか容量を心得ない仕事をどうにかこなし、退勤。地元などと呼ぶには、まだまだ気が引ける自宅近隣で、思いがけず餃子を食べることになる。これまた思いがけないあられに打たれつつ、小走りで目当ての店へ。突き出しであるところの相当にいけるもやしの和えものをビールで流し込んだ時点で、すでに腹は膨れつつあったが、一口大のメインは下降線をたどる一方の胃にも優しかった。

 

 愛煙家にはなれそうにもないながら、結果的にゆるゆる続けてしまっているタバコを2本ほど吸ったところで、翌日のことを考慮する大人の幕引きとなり、帰宅。飲酒時の喫煙に関して、一考を要することは自覚している。そういうつもりでいる。