読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

関根デッカオ's 不肖動静

筆者の頭部に、大きさなりのはたらきを見せてもらおうという試みです。

喫茶アドマンに行ってきた

お店 日記

 ポケモンGOの聖地たる扇町公園の少し南、喫茶アドマンに行ってきた。時刻は午後3時過ぎ、大阪万博の前後に創業したというのも納得のムードを漂わせつつも、実に手入れの行き届いた店に、フランクなママが迎え入れてくれた。

 

 客は僕1人だけ。温かいカフェオレを注文し、至極当たり障りのない天気の話を皮切りに、ママとのトークが始まった。

 

 土地柄、その昔は近隣の新聞社や水道局の人々が多く出入りしていたこと、阪神高速の高架がビルの林立に伴ってどんどん見えなくなっていったこと、ゴミ出しのルール違反に悩まされたこと…などなど。ママの話題は尽きない。妙な間が空くようなこともなく、初対面であることが不思議なくらいに話が弾んだ。こちらの日常生活における愚痴さえも聞いてくれた。えもいわれぬ安心感がそこにはあった。

 

 気がついてみれば、入店から2時間弱が経過していた。店内のしつらえについて詳しく聞かせてもらったり、未だに在庫がはけないと笑うマッチをちょうだいしたり。白地に金の「アドマン」の文字がいかにも上品であった。

 

 また、ママは三重から大阪に出てきたとのことで、これくらいの都会がちょうどいいというところに合意を形成するに至った。そうして、すぐそばにある梅田という街のある種の攻撃性のようなものについても、互いに共鳴する部分があった。そんな僕は和歌山出身である。

 

 帰りがけ、ママは「まだまだ寒いし、風邪を引かないように」と声をかけてくれた。これまた紋切り型といえばそうなのであるが、そうは感じさせない何かがあった。アドマンのマッチで着火したタバコは、いつもより数段おいしく思われた。

トースト賛歌

随筆

 目下の楽しみのひとつに、朝一番のトーストが挙げられる。この数年ほど、消化器系が満足に機能しておらず、粗食にならざるを得ないことに加え、だいたいにおいて帰宅が午後11時近くになる事情も手伝って、豪勢な晩餐がかなわない。それゆえ、朝食に光明を見出すのは、ごくごく自然のなりゆきなのである。

 

 トーストに用いる食パンは、業務スーパーに求める。5枚切りである。いわゆるプライベートブランドのもので、税抜き68円くらいだったかしら。一度に半月ぶんほどを購入し、即座に冷凍する。グレードの高低は問題ではない。高価なものには、それなりのよろしさがあるのだろうけれど、起床間もない時間に食したところで、そのよさを存分に感じ取ることはできないから。そのような次第で、ドンクなり、進々堂なりを訪ねて、気の利いた食パンを買うことはないのである。

 

 コチコチになったそれは、バター、否、マーガリンを塗る際にもストレスがない。言い忘れていたけれど、僕はマーガリン先塗り派だ。その方が油脂が浸透し、香りが立つように思われるから。

 

 少々性能が落ちたオーブントースターで、4、5分をかけて焼き上げられたトーストは、なんとも美しい。そして、おいしい。当然、食べ進めればなくなるものなのだけれど、そのことが実に惜しい。できることならば、畳10畳ぶんほどを一度に食してみたいものだけれど、現実的な話ではない。何より胃腸がそれを許してくれない。ここのところの切なさに魅せられている部分が、多少なりともあるのかもしれない。

 

 トーストを完食し、入浴する。続けざまに歯を磨き、髪を乾かし、タバコなど吸う。にわかによたつきつつ駅へと向かう道すがら、来るべき昼食に想いを馳せる。これが毎朝のルーティーンなのである。

あんなことやこんなこと

随筆

 ここ最近、自発的に音楽を聴くようになった。ずいぶんと久しぶりのことである。すなわち快挙である。選曲の指針としては、出勤時にはつかみどころのないものを、退勤時にはアッパーなものを聴くようにしている。そうすると、いくらか調子がよろしいように思われるのだ。きっと気のせいなのだろう。

 

 ある日の阪急電車で、向かいに座る女が読んでいたというだけの理由から、久生十蘭の短編集を買った。現状、1.5編ほど読んだところで投げ出しているが、僕はここにさえ自らの大いなる成長を見出したくてならない。偉い。ひたすらに偉い。念のために申し添えておくと、くだんの読書家の女は好みではなかったように思う。

 

 数年ほどの間に、洋服の趣味がいくらか変わった。さかのぼること中学校時代はB-BOY的な嗜好とは無関係なところでオーバーサイズのものを、大学時代には盲目的なまでにジャストフィットを、それぞれ愛好していたものだが、そのいずれでもなくなってきた。ただ、ロックTに対する認識については相変わらずといった感じで、よく知ったミュージシャンのものでないと、責任を持って着ることができない。が、おそらくそんなことは誰も気にしていない。

 

 昨日のこと、日本の人に出身国を問われた。おおかた、彫りが深くなったのであろう。

破壊行為をはたらいて

日記

 人の持ちものを誤って破壊し、悲嘆に暮れる。これまで会社として所有するものについては、何度か修理を要する事態に追い込むことがあったのだけれど、まるで悪びれるようなことはなかった。しかし、個人蔵のものとなると、少々勝手が違うらしい。事故発生から12時間が経過しようとしているが、未だにいかんともしがたい気持ちをぬぐい去れずにいる。地下鉄の駅構内を歩くときのような、歩きスマホなどしつつ突進してくる人々に相対するときのような気構えを持ち出したいところだが、なかなかそうにもいかず、自宅までたどり着いてしまった格好だ。本当にすみませんでした。

 

 話は変わって、さかのぼることお昼頃。仕事に出た先で、大学のダンスサークルと思しき連中が、ストリートトレーニングに励むところに遭遇する。さる大型商業施設の窓に自らを映し込み、何やら熱心にパラパラしているのであった。ああいった状況に直面するたび、僕はそこはかとない恐怖の念を禁じえない。別に茶化されるようなことはないと分かってはいるのだけれど、具体的な理由については見当もつかないのだけれど、なぜだかしみじみ恐ろしい。ここのところの感情の機微は、学生時代から一切不変のようである。困ったことだ。

 

 くだんの商業施設に足を踏み入れると、今度はボンタン・短ランに身を包んだ古式ゆかしい高校生がたむろしていた。ひょっとすると、即席の難癖をつけてくるのではあるまいか。ひと昔前のバスケットボール選手のような頭をした彼らにも、また同様におののく。こちらとしてはトイレを借りるだけだったはずが、余計な切迫感を覚えることになってしまった。落ち着いて大便をひり出す予定が、あまつさえトイレに入るタイミングまでかぶってしまい、肝を冷やすばかりであった。

 

 僕ももう27歳。トイレを選り好みしている場合ではないのかもしれない。

ぽっちゃり論争に終止符を

随筆 猥談

 世に星の数ほど存在するであろう不毛な争いのなかでも、特に救いがないのが、ぽっちゃり論争ではないかと思う。悲しいことに「男の言う『ぽっちゃり』と女の言うそれとは違う」というような箸にも棒にもかからぬような話が、日夜大まじめに語られているのである。なかには「男の基準」とされるものを自発的に受け入れ、不要不急の悲壮感を漂わせる女さえいる。

 

 個人的な見解を述べさせてもらうとすれば、この手の語りに頻出の深田恭子に関しては、デブはおろかぽっちゃりにも値しないと認識している。篠崎愛なども、せいぜいぽっちゃり未遂の範疇だと思う。彼女らがぽっちゃりを名乗ろうものなら、また同様の判断基準を一般にまで適用しようものなら、諸々のパワーバランスが乱れるのではあるまいか。そこのところに、僕は大いなる懸念を抱くのである。

 

 この問題が生ずるゆえんとは何か。あれこれと考えてみた結果、僕は主観と主観がぶつかりあうがゆえに、しょうもない軋轢が生じるためというような結論に達した。ネガティブ、あるいはポジティブな評価を下すべく、個々人が言葉を使い分ける。その限りにおいては、未来永劫、人と人とが理解しあうことなどかなわないであろう。自らの嗜好を表明するだけなら、好きか嫌いかを述べれば足るにもかかわらず、やれデブだ、いや、あれはぽっちゃりだ、いやいや、普通体型だというようなところに話を誘導するようでは、まるでらちが明かないではないか。

 

 そこでひとつ、提案がある。いっそ客観的な基準を設定してはどうだろうか。すなわち、ボクシングの階級よろしく体重ごとの線引きをし、それでも不十分であるようなら身長やスリーサイズまで加味して、デブとぽっちゃり、普通体型とスレンダーとの境界を明確化するのである。ここのところをあいまいにしてきたばかりに、勝手気ままな自由裁量が横行してきたばかりに、不毛な争いの歴史が繰り返されてきたのだと思う。が、ただこれだけの手間をかけてしまいさえすれば、少なくとも表面的な論争も抑止されるように思われる。加えてAVのジャンル区分や性風俗店の棲み分けに関する諸問題まで解消されようから、一石二鳥である。法制化さえ検討されるべきではなかろうか。

 

 ただ一点、身長や体重などの申告が必要であることについては気がかりではあるが、とりあえずその点と目論みの甘さへの批判に関しては目をつむっておくことにしたい。同時に表立った議論の対象にすらなっていない男については、基準の採用を見送ることにしたく思う。